【塾長コラム】文系と理系の違いを独自視点で解説

こんにちは、理塾です。
今回は、塾長コラム「文系と理系の違いを考える」をお届けします。

皆さんは、高1生になると「文理選択」をしますよね。

それでは、文系と理系の違いについて、どう考えていますか?
「文系が言語で、理系が数学」みたいなイメージを持っている人も少なくないと思います。
しかし、果たして、そんな簡素なものでしょうか?

理塾は医大生(超理系)が指導する塾なので、「理系を推すやろな」と思われる人も多いでしょう。
細かな就職観などを言っても良いのですが、それは教室の面談でも言えますから、今日はもっと大きな、文系理系の概念について、塾長の私見を話します。

先に結論から言うと、塾長は「大きなカテゴリとして考えると、文系の方がスゲー」と思っています。
なぜなら、「理系は誰がやっても同じ結論にたどり着くから」です。
詳しく説明しましょう。

まず理系は、「工学系」と「物質系」と「農学系」と「医薬系」に大きく分かれます。
どれも、先進テクノロジーの開発を担当していて、技術革新をしてくれていますよね。

例えば学生諸君が手放すことができないスマホは、理系の技術のカタマリです。
こんなもんを作りだしたのは理系なので、「理系の先進技術スゲー」と思われるかもしれませんが、実は理系は「先に進む学問」ではなく、「原理に戻る学問」です。

スマホなどの通信技術は、この宇宙の物理法則に従っており、今まで解明できなかった何かが解明される時、それに伴う技術が「新しい技術」として生まれます。
そこに個人の個性などは一切無く、解明されたことが只ひとつのことなのであれば、そこから生まれる新技術も誰が解明したかに関わらず、すべて同じものになります。

なので、極論すれば、ノーベル賞を受賞するレベルの天才は、仮にその人が登場しなくても、いずれは誰かが同じことを解明するもの、なのです。
誰がどう技術革新をしたところで、多少の誤差はあれど、500年後の通信技術はほぼ同じものになるでしょう。
新薬の開発も、ロケット開発も、地震感知システムも、誰がどう取り組んでも、技術の根本は最終的には同じものになります。
この宇宙の物理法則は不変であり、それに従ったものしか生み出せないからです。

難しく考える必要はありません。
ものすごく簡単に言えば、ハサミは世界各国どれも似たような同じ形をしていますよね。
なぜ、色々なタイプのハサミが無いのでしょうか?
皆さんは、そういった疑問を抱いたことはありませんか?

新しい形のハサミが作れないのは、人間の指の構造を配慮したうえで、支点力点作用点の法則に従うと、あの形になるしかないから、なのです。
支点力点作用点の法則に従うと、ハサミは今のカタチが最終形態なので、100年以上前からずっと変わりません。次に変わるのは、別の物理法則が解明される時を待つしかないのです。

ですから、ものすごく変な例ですが、この地球の軌道上に宇宙船が現れて「遥か遠くの銀河から宇宙人」がやって来たとして、「その宇宙人の姿かたちは想像できない」のですが、その「宇宙人との交信は即座に可能」です。
なぜなら、交信は通信技術のことであり、電波(電磁波)か電子か光子などを使うしかなく、技術レベルが高い方が低い方に合わせるのは簡単なことだからです。
もちろん、信号をやり取りするのは即座に可能ですが、言語として「何を言ってるか」を理解するのは別の話ですが…。

一方、文系の方は、別に宇宙の原理など一点に収束するものではありません。
松尾芭蕉が「閑さや岩にしみ入る蝉の声」と詠んだのは、彼の感覚が生み出したものであり、松尾芭蕉がいなくても誰かが生み出すだろう…ということにはなりません。
同じようにピカソが「ゲルニカ」という名画を産み出したのはピカソだからであり、誰か一人の天才の感覚が何かを産み出し、それを周囲が追随していくという点で、理系とは全く異なるのです。

この感覚という部分は理系には無い大きな違いです。
見方によって、善にも悪にも、明にも暗にも、どうとでもなるからです。
一点に集約せざるを得ない理系とは全く違うところです。

難しく考える必要はありません。
ものすごく変な例ですが、あなたの自宅周辺で、手にウンコの入った袋を持って10分程度ウロウロしている人がいれば、普通は「変質者がいる」と警察に通報しますよね。
でもそれが、犬を連れた人なら「犬のフンのマナーを守ってる、むしろ良い飼い主」です。
これは極論ではあるものの、理系にとっては「変質者は変質者以外の何者でもない(誰が求めても結論は常に一つ)」のですが、文系にとっては「感覚や解釈の違いによって、変質者が良い飼い主になる(個人の感覚で見方は変わる)」のです。

例えが下品すぎましたが、同じことは文系の花形である法学部でも言えます。
法律(理系で言えば原理みたいなもの)は一つであるものの、裁判の結果は、いろんな法律や判例の解釈があり、人間が判断することなので、決して一つにはなりません。

これは理系にとって驚くべきことです。
法律という原典がひとつしかないのに、生み出される結果がさまざまであるというのは、理系にとっては異常事態であり、理系の発想からすれば「原典が間違っているから、異なる結果を導いたのだ」と考えざるを得ないからです。

感覚の生き物である人間は二つの中から一つをランダムに選ぶということが簡単にできますが、理系が生み出したロボットやプラグラムはランダムに選ぶということが実はできません。
無理数を用いて、疑似的にランダムを演出することしかできないのです。いい加減に見せているだけで、条件が全く同じなら、何度でも結果が同じになり再現性があるのが理系の限界なのです。

そして、我々人間は、宇宙の不変の物理法則に従いつつも、感覚を主とした生活を送っています。
そういう意味では、我々を取り巻く周囲や環境は理系的(理系が作りだしたもの)と言えますが、我々人間はそもそも文系的な存在なのです。

「こういう観点で、文系理系を解説してくれる学校の先生は、恐らくいないだろう」と思ったので、あえて個性的な観点で話してみました。
深く突き詰めると教養だけではなく哲学の要素も入ってくるので、一旦ここらで切り上げましょう。

実際に必要になる科目や勉強の仕方、それから現実的な進路先や就職のイメージについては、教室の面談で折を見てお話ししています。

理塾の塾長は高い教養を持っているため、毎日こんなことを考えて過ごしているのですが、完全オリジナルの文章なので、こういうのが好きな人は楽しんで貰えたのではないでしょうか。
※理塾では、普段から「すぐに役に立つわけでは無いけど、興味深い教養豊かな話」をしているので、興味のある方は理塾へどうぞ。

こういう話ができる人(普段から、こういう視点を持っている人)は、個別指導塾の先生だとほとんど居ないと思うので、疑問のある人は理塾の塾長まで話を聞きに来てくださいね!!

タイトルとURLをコピーしました